文化2(1805)年の10月、かの華岡青洲が全身麻酔手術をおこないました。今月はそれにちなみ、中近世の日本史に残る医師たちを何人かご紹介しましょう。
田代三喜・曲直瀬道三
最初にご紹介するのは、戦国期に活躍した師弟です。
まず田代三喜。寛正6(1465)年に生まれ、武家でありながら、医術にも通じるという家柄に生まれました。三喜も医術をめざし、有名な足利学校で学んだのち、22歳の年に当時の明へと渡ります。明において最新の漢方医学を学んだ三喜は、33歳の年に帰国。関東を中心に活躍するのです。
そんな三喜の弟子が、曲直瀬(まなせ)道三です。道三は永正4(1507)年、やはり武家に生まれました。21歳のころ、三喜と同じく足利学校に入り、そこで三喜と出会うのです。以後、道三は三喜に学び、やがて京都を拠点に活動を始めます。かれの患者には当時の名だたる名将がいたといいます。
この三喜、道三の医術が、近世日本の漢方医学の源流ともされ、以後の医学に大きな影響を与えたのです。
山脇東洋
宝永2(1706)年に医師の家に生まれました。20代のころ、京都の医術の名家・山脇家に養子として入り、医の腕を磨きます。
当時、日本で普及していた医学は漢方中心で、人体の把握についても、現実のそれとは大きく異なっていました。東洋はそれに疑問を抱き、人体の解剖を望むようになります。当時、人体の解剖は禁止されていたのですが、京都所司代の許可を何とか得ることができ、東洋は死刑囚の遺体解剖(腑分け)に立ち会うのです。これが国内初の人体解剖とされ、東洋はこの時に得た知見を「蔵志」という書物にまとめます。これにより、日本医学は、近代化への第一歩目を踏み出すのです。
杉田玄白・前野良沢
この両者はひじょうに有名でしょう。江戸中期の医師で、協力してオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を和訳、「解体新書」として完成させた人物たちです(なお協力者は他にも、中川淳庵や桂川甫周がいます)。
ふたりの生涯はひじょうに対照的です。玄白については以前紹介しました。「解体新書」の出版後、医師として順調に活動し、かれの医塾、医院は大変な繁盛振りをみせるのです。
一方、もう一人の翻訳者、前野良沢は学究肌の性格で、名声を好まず、気難しかったと伝えられます。実は「解体新書」の翻訳は、オランダ語の素養のあった良沢がその中心でした。しかし刊行の際には良沢の名は出てきません。「解体新書」は良沢にとって満足な翻訳ではなかったため、名を出すのを断ったとも言われます。
その後も良沢はオランダ語をはじめとする学術研究をおこなったものの、名声も、人との交流ももとめず、享和3(1803)年にひっそりと亡くなりました。
華岡青洲
宝暦10(1760)年、紀州藩(現在の和歌山県)に生まれた華岡青洲は、20代のはじめに京都に出て、当時の日本の医学から、海外の医学まで広く触れ、数年後に帰郷しました。その後青洲は麻酔薬の開発に着手し「通仙散」として完成させます。この開発過程において、母と妻が実験台となり、母は死亡、妻は失明したというエピソードは後世に物語化され、よく知られています。この「通仙散」を用いた全身麻酔手術は文化元(1804)年10月13日に、乳がんの患者に対して実施され、がんの摘出に成功します。その後青洲は紀州藩の医師として栄達し、弟子も多く育てています。
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