今月ご紹介するのは江戸後期の蘭学者、高野長英。教科書にも登場する有名歴史人物です。
高野長英は、伊達政宗が開いたことで有名な仙台藩の水沢に生まれました。武士の家でしたが、父が早く亡くなったため、母方の親戚の家へ養子に入っています。この養父・高野玄斎が医師で、かの杉田玄白の弟子でした。この影響から、長英も蘭学などの学問に興味を抱くようになったといいます。
10代も後半に入ると、長英の学問への興味はますます強まり、家族の反対を押し切って江戸へと出てきます。
江戸では大したつてもなく、当初苦労したようですが、医師で蘭学者の吉田長淑に弟子入りが叶い、学問をおこないました。長英はこの人物の「長」の字をもらい、「高野長英」と名乗ったのです。
やがて長英は医師として仕事ができるようになりますが、師匠の死をきっかけに長崎を訪れます。当時、長崎にはシーボルトがおり、全国の優秀な学者がかれのもとで学んでいました。長英はこのシーボルトの「鳴滝塾」に入塾し、本格的な蘭学に触れることとなります。
鳴滝塾での長英は大したものでした。入塾後間もなく、天賦ともいえる語学力が開花し、短期間で鳴滝塾でもっとも優れた塾生といわれるまでになりました。その学力はシーボルトも大いに認めるところでした。
しかし、そんな長英にあるつまづきが訪れます。それは長英に原因のあるものではなく、歴史上でも有名な「シーボルト事件」によるものでした。シーボルトが国外に日本地図を持ち出そうとしていたことが発覚し、シーボルトは国外追放に、その地図をシーボルトに渡した幕府天文方・高橋景保は死罪になったという事件です。
事件ではシーボルトの弟子たちも幾人かがとらえられましたが、長英はうまく難を逃れています。
その後長英は江戸へと戻り、ふたたび医師として活動を始めます。
江戸において長英はさまざまな蘭学者、学者と知り合い、そのつながりから「尚歯会」という、いわば学問サークルに入会します。サークルといってもそこに集うのは、渡辺崋山や江川英龍といった当時をリードする知識・能力を持った人間ばかり。かれはこの尚歯会において、当時の学問から社会問題までをさまざまに議論しました。
そのような活動を通し、長英は「夢物語」と題した書を著します。この書には幕府の対外政策批判の内容が込められていましたが、著者として長英の名を出すことはなく、当初は仲間内で読まれているだけのものでした。しかしこれが写本され、長英が思ったよりずっと広く読まれるようになると事態が激変します。長英は幕府に睨まれ、捕らえられてしまうのです。このとき同時にとらえられたのに渡辺崋山がおり、この事件を「蛮社の獄」といいます。長英35歳の年です。
捕まった長英は牢に入れられました。牢内での長英は医師としての経歴を生かして囚人を診察したりしたため、頼りにされるようになり、やがて牢名主の立場にのぼったといいます。牢名主というのは囚人中のリーダーといったもので、囚人ではあるものの、一般のそれとは違った環境が与えられます。
そんな境遇にあった長英ですが、牢で起こった火災に乗じ、逃亡してしまいます。そもそもこの火災は偶然起こったものではなく、長英が牢の雑務をこなす下男をそそのかし火をつけさせたのが原因と言われます。
技術もなく、人手も少ない当時のことです。写真もなく、監視カメラもなく、潜伏場所も豊富な感じがして、人一人が逃げてもなかなか捕まらないようなイメージはないでしょうか。しかし、そんなことはありません。当時にあっても、幕府が本気で追った人間はかなりの確率で捕縛されたといいます。むろん、長英に対する追及の手も厳しく、かれはそれをのがれ、全国を転々とすることになります。逃げるため、酸で顔を焼いて人相を変えたとさえ伝わります。
長英の終焉の地は江戸でした。江戸で身分を隠し、医師として働いていたところを捕縛されたのです。あまりに腕が良過ぎて怪しまれた、ともいいますから、皮肉なことです。
長英は役人に囲まれ、捕らえられました。捕縛のさいに激しく暴行され、移送中にそのまま亡くなったとも、抵抗の際に持っていた刃物で自害したともいいます。長英46歳の年でした。
最後に一つ、長英について知られたエピソードをご紹介して、今回はおしまいとしましょう。
シーボルトの弟子が集った宴会で「オランダ語しか使ってはいけない」という遊びをおこなった際、皆がついつい日本語を使ってしまうのに、長英だけは最後まで日本語を使いませんでした。それをねたましく思った仲間に階段から突き落とされかけますが、長英はそれでも、オランダ語で「危ない」と叫び、ついに日本語を口にしなかったといいます。
さて、長英の生涯とこのエピソードを併せると、どのような人物が想像されるでしょうか。
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