先月は、禁門の変により長州藩が朝敵となってしまったところで終わりました。今月はそれ以後の情勢をご紹介します。
長州藩の動静
とうとう朝敵となった長州藩。その長州藩を、幕府は軍事力によって徹底的に叩くことを計画します。これを「第一次長州征伐」といいます。幕府は大量の兵を集め、長州に向けて進軍しました。ちなみに、この軍の司令部には、薩摩藩の西郷隆盛も含まれていました。
さて、当の長州藩ですが、これはもはや散々な状況でした。京都を追い出された上に朝敵とされ、国元では下関戦争で惨敗を喫しています。藩の中はばらばら、大勢力の幕府軍に勝てる見込みはありません。そこで長州は幕府に対して恭順の態度を取り続けました。これを見た幕府は撤退を決め、第一次長州征伐が幕府と長州の全面戦争にまで発展することはありませんでした。
しかしながら、長州藩内部はその後、幕府に恭順することで一致したかというと、話は全く逆です。この直後、長州藩では若手藩士によるクーデターが起こり、幕府に抵抗する一派が政権を奪取したのです。クーデターの中心人物は高杉晋作でした。クーデター後、長州は軍備の増強をはじめとする軍事改革に着手します。
これに怒ったのが幕府です。恭順姿勢を貫いたから軍を退いたのに、いきなり反幕府派が藩を掌握したという。しかも軍備まで整え始めた……怒るのも無理はありません。こうして第二次の長州征伐が計画されることになります。
薩長同盟という激震
ところがここで、情勢を一挙にひっくり返すことが起こります。慶応二(1866)年の「薩長同盟成立」でした。これまで激しく対立していた薩摩と長州。二つの雄藩が同盟を結んだのです。
基本的には幕府に協力してきた薩摩藩と、ことあるごとに幕府と対立してきた長州藩。両藩の歩いてきた道筋を見れば、ほとんど奇跡に近い同盟のようにも思えますが、実は条件は整っていました。両藩とも、欧米との戦争に大敗北し、日本と欧米の力の差を痛感していたことがその大きな条件の一つ。欧米はあまりにも強すぎる、生半可な攘夷や改革では、いずれ日本は欧米に呑み込まれる……そんな危機感は徐々に倒幕の意思へと変化し、両藩を同盟の実現に踏み出させたのです。さらに言うなら、下関戦争や禁門の変などで、長州藩が疲弊し切っていたことも好条件でした。長州藩にとって、薩摩藩の力は喉から手が出るほど欲しいものだったのです。この機を見逃さず、両者を斡旋し、同盟成立に導く中心人物が、有名な坂本龍馬というわけです。
その一方で、第二次長州征伐の計画は着々と進んでいました。幕府側の薩摩が、反幕府側で征伐の当事者である長州と手を結んだわけですから、この征伐はもはや上手くゆくわけがありませんでした。しかし、薩長同盟は秘密同盟でしたから、幕府はこのことを知るよしもありません。構わず征伐を実行するのです。
薩摩と同盟を結んだ長州は、今度は幕府に抗戦しました。当然のことながら、薩摩も幕府に協力しません。結果、幕府はほうぼうで長州に打ち破られ、追いつめられます。しかも征伐の途中には、十四代将軍の徳川家茂が病死までしてしまいます。幕府はたまらず長州藩と停戦し、江戸へと引き上げてゆくのです。停戦とは言え、これは幕府の敗北でした。
江戸幕府がたった一つの藩を征伐することさえできなかった。幕府はその衰えた姿を全国にさらしたようなものでした。これで歴史的な流れはほとんど決まったと言ってよいでしょう。つまり、幕府の消滅です。あとは、どのように消滅させるかという問題が残っただけです。
「明治維新」が行われる
家茂の死後、将軍職は徳川慶喜が継承しました。慶喜は幕政改革を加速させ、幕府を何とか立て直そうとしますが、それももはや手遅れでした。薩摩藩はいよいよ倒幕の意志をかため、準備を進めていましたし、長州藩ももちろん倒幕を行おうとしていました。朝廷内でも倒幕派がその力を強めていました。また、孝明天皇が崩御し、攘夷や開国にこだわり、頭を悩ませる必要もなくなっていました。江戸幕府にとっては、まさに手詰まりの状況だったといえます。
倒幕必至。このような情勢下、将軍慶喜は宙返りのような一手を繰り出します。それはすなわち、幕府が持っていた政権を朝廷に返してしまうことでした。これが慶応3(1867)年の「大政奉還」です。大政奉還から間もなく、朝廷による政治が行われることを大々的に宣言する「王政復古の大号令」が出されました。
翌年3月に新政権の政治方針を示した「五箇条の御誓文」が示され、9月には「明治」への改元も行われました。一般的にはこの明治元(1868)年が「明治維新」の年とされます。これでついに封建制度的な政治の時代が終わり、新しい政府による近代的国家の時代が始まるということになります。
維新成り…
さて、明治維新はとりあえず成就しましたが、その後、すんなり新しい政治が始まったわけではありません。幕臣たちによる新政府への反抗戦争、すなわち「戊辰戦争」が行われたからです。しかし、緒戦の「鳥羽・伏見の戦い」の結果は幕府軍の完敗。新政府軍は東へと進撃し、ついに江戸総攻撃の準備を進めました。しかし、この総攻撃は寸前で取りやめになります。幕臣の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との間の交渉がまとまったからです。その結果行われたのが「江戸城無血開城」です。
とは言え、残された幕臣の一部は各地で戦闘を続けました。これが完全に終息したのは明治2(1869)年のこと。箱館における「五稜郭の戦い」がその最後でした。
以上が幕末・維新期の概要です。主な事件や出来事だけを追ってきましたが、それでも先月と今月で随分と長い記事になってしまいました。
さまざまな勢力や人物が絡み合うため、きわめて複雑で広大な幕末・維新の歴史。個々の人物、事件などは知っていても、流れとして掴んでいる方は案外少ないのではないでしょうか。この記事でそのアウトラインを掴んでいただき、歴史を楽しむ助けにしていただければ幸いです。
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