今回取り上げるのは北里柴三郎です。明治時代、無名の小国に過ぎなかった頃の日本から世界に飛び出し、大きな実績を上げた細菌学者です。なぜか知名度があまり高くないようですが、間違いなく近代日本の立ち上がりを支えた人物の一人と言えるでしょう。
医学の道
北里柴三郎は、江戸末期の嘉永5(1853)年12月20日、肥後国(現在の熊本県)阿蘇郡で誕生しました。実家は村の重役(総庄屋)をつとめる家でした。
柴三郎ははじめ漢学を学んでいましたが、明治時代になると、熊本の医学校に入りました。ただ、医学校に入ったのは両親の希望が大きく、柴三郎自身は政治家か軍人になりたかったようです。それでも、医学校に入ればとりあえず先進の洋学に触れられることは確かですから、医師になる気がなくともとりあえず入学して、学問をしながら将来に備えようというのが柴三郎の計画だったようです。
そんな柴三郎の気持ちを変えたのが、医学校教師のオランダ人医師・マンスフェルトでした。柴三郎の豊かな才能を見抜いたマンスフェルトは、柴三郎にさまざまな学問を手ほどきし、また、医学の道も決して価値のないものではないとも説きました。そんなマンスフェルトと接することで、柴三郎は医学の道に進むことを決意します。
やがて柴三郎はマンスフェルトの勧めもあり、本格的に医学を学ぶために東京へと出て、東京医学校(後の東京大学医学部)に入学しました。1875(明治8)年のことです。
在学中の柴三郎は、常に中位以上の成績をキープしました。また、学生の結社を作ったり、柔道や剣道の会を開いたりもしたといいます。活動家的で親分肌な性格だったのでしょう。
学校を卒業すると、柴三郎は内務省衛生局の役人となりました。政治にも関わりつつ、自分が持つ医学の知識を活かせるという思いからでした。
この衛生局において柴三郎は細菌の研究を行うことになるのですが、この時、柴三郎の指導にあたったのが緒方正規という人物です。
緒方は柴三郎と同郷の医師です。年齢は一つ下でしたが、東大の先輩でもあり、ドイツ留学まで経験した俊才でした。そんな緒方の下で、柴三郎は研究に励みました。
めざましい活躍
やがて柴三郎に、一つの転機が訪れます。ドイツ留学へ行けることになったのです。実はこのドイツ留学、当初は他の人物の派遣が決まっており、柴三郎が行くはずではありませんでした。しかし周囲から、北里も送らないのかという声が出て、どうにか滑り込みで派遣が決まったのです。幸運でしたが、柴三郎の姿勢や実力が周囲に認められていたということでもあるでしょう。
1885年、柴三郎はドイツに旅立ちました。現地ではコッホの下で細菌学の研究に励みます。コッホは、炭疽菌の性質や感染経路を明らかにしたほか、結核菌、コレラ菌を発見するなどの実績を上げ、細菌学の確立者の一人ともされている学者です。
このコッホのもとで柴三郎はひたすらに研究を続け、ついに大きな実績をあげることになります。その実績とは、破傷風菌の純粋培養と、免疫体(抗毒素)の発見、そして血清療法の開発でした。詳しい解説は省きますが、破傷風という恐ろしい病気の原因菌を取り出すことに成功し、画期的な治療法も編み出したということです。
そしてもう一つ、同僚であるベーリングの研究に対する協力も行い、こちらはジフテリアの血清療法確立という成果に結実しました。これが評価されて、後にベーリングは第一回のノーベル賞を受賞しています。
なお、協力した柴三郎の方はノーベル賞に選ばれなかったのですが、この理由についてはさまざまな説があります。柴三郎は単なる協力者で共同研究者とは見なされなかった、とか、そもそも共同受賞の概念が当時はなかった、といった説です。アジア人に対する人種差別があった、という説も根強くありますが、それも明確な証拠はなく、どれが真相なのかは未だによく分かっていません。
ともかく柴三郎は、ドイツにおいて大きな実績を上げました。北里の名は欧米に響き渡り、研究者として各国からの引き合いがあったといいます。しかし柴三郎はそれらに応じず、留学を終えると日本へ帰ってきます。日本と日本の医学に貢献したいという思いからでした。
日本での苦難
日本に帰ってきた柴三郎は、国内に伝染病研究機関を設置しようと活動を開始しました。ところが、政府などに働きかけても、話は遅々として進みません。打てど響かず、というありさまです。
これにはお役所仕事の鈍さという要因もありましたが、それより、ドイツ留学中に柴三郎がしたあることが関係していたと言われます。
脚気という病気があります。これは当時多くの死者を出していた病気で、脚気対策は医学界の大きな課題となっていました。しかし当時ではその原因さえよく分かっていなかったのです。そのためさまざまな説が唱えられていましたが、そのうちの一つが「脚気は病原菌によって起こる(※1)」という説です。先ほど柴三郎の先輩の緒方正規という人物が出てきましたが、この緒方も病原菌説を唱える一人でした。一方、柴三郎はこれを間違っていると考え、緒方に公然と反論したのです。
これに怒ったのが東大や当時の医学界、それと深いつながりを持つ文部省でした。世話になった先輩を堂々と否定するなどとけしからん、というわけで、これが、柴三郎に対する冷遇を引き起こしたといわれます(※2)。
ほかにも、東大からコッホのもとに医師を派遣しようとした際、柴三郎が既にいるという理由で上手くいかなかったということなどもあったらしく、これも東大と柴三郎の仲を悪くさせたようです。
さて、八方ふさがりの柴三郎でしたが、そこに手を差し伸べた人物があります。それは、あの福沢諭吉でした。長与専斎という人物(柴三郎が内務省に入った当時の上司)を通して福沢と柴三郎は知り合い、福沢の援助によって、伝染病研究所が設立されたのです。柴三郎はその所長となりました。
※1 脚気は病原菌ではなく、ビタミンの不足から起きることが現在では明らかになっています。
※2 肝心の柴三郎と緒方の仲はそれほど悪くなく、個人的な交流は晩年まで続いたとのことです
伝研移管騒動
ようやく立ち上げた研究所で、柴三郎は精力的に研究を続けました。この時期の大きな実績に、ペスト菌の発見などがあります。また、研究所の所員には赤痢菌を発見した志賀潔などがあり、ほかに、あの野口英世も一時研究所に籍を置いていました。後進の育成にも成功していたと言ってよいでしょう。
ところが、順調に見えたこの研究所を巡って一騒動起こってしまいます。先ほど述べた通り、研究所は私立としてスタートしていますが、まもなくその実績が認められて国立に改組されました。その後しばらくはこの状態で運営されたのですが、その後、研究所を内務省管轄から文部省管轄へと移し、東大の下部機関にするという政府の決定が突如なされるのです。東大および医学界と柴三郎の対立が尾を引いてこのようになったものらしく、柴三郎もこれには強く反対しました。しかし反対し切れない情勢になると、柴三郎は研究所をすっぱりと辞めてしまうのです。
話はこれで終わりません。柴三郎の辞任を知った所員たちも皆、柴三郎を追って研究所を辞めてしまったのです。研究所の移管が覆ることは結局ありませんでしたが、東大に渡ったのは空っぽの研究所だけという顛末でした。柴三郎が弟子、部下からよく慕われていたことが分かるエピソードです。
これは当時「伝研移管騒動」などと呼ばれ、社会的にかなり大きな話題になったようです。
偉人・北里柴三郎
伝染病研究所を辞任した柴三郎は新たに私立の研究所「北里研究所」を設立し、その所長となりました。また、慶応大学医学部の設立を主導し、初代の医学部長にもなりました。福沢諭吉の恩に報いるための尽力だったといいます(ご存知、慶応大は福沢の創設した大学です)。ほかに、日本医師会の初代会長もつとめています。
こうして日本医学界の発展に貢献し続けた柴三郎は、1931年にこの世を去りました。
熊本で志を立て、東京へ出て、海外へ渡り、ついに欧米の学界を驚嘆させた北里柴三郎。帰国してからは数々の苦難に遭っていますが、その度にそれを乗り越えました。その人生を見渡して浮き上がってくるのは、そのどこまでも真っ直ぐな歩み方ではないでしょうか。近代が始まったばかりの日本に満ちていたパワー、気概。それを体現した、いかにも偉人らしい偉人が、北里柴三郎だったように思えます。
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