今月は、先月に引き続き、関ヶ原の戦いをご紹介します。前回は関ヶ原の戦いが始まって終わるまでの歴史的な流れを重点的にご紹介しました。今回はそこから離れ、関ヶ原の戦いをとりまくいくつかのエピソードを見てみましょう。戦国時代に詳しい方ならすでにご存知の話ばかりかと思いますが、どうぞお付き合いください。
総大将は誰だ?
「関ヶ原の戦い」といえば「徳川家康と石田三成の戦い」と捉えておられる方は多いでしょう。それはその通りなのですが、では両軍の総大将もそうであったかというと、実は違います。東軍の総大将は確かに徳川家康でした。しかし相対する西軍の総大将は三成ではなく、毛利輝元という人物だったのです。
毛利輝元といえば中国地方の大大名。かの英雄・毛利元就の孫で、五大老の一人にも名を連ねる大物です。本来、家康との戦いにあたっては、実質的に西軍を取り仕切っていた三成が総大将をつとめるべきでした。しかしながら三成は家康に比べ、キャリアの面からも、実力の面からも随分格が落ちる人物。おまけに人気もありませんでしたから、大将をつとめるのは得策とは言えませんでした。そこで西軍の総大将就任を毛利輝元に頼んだというわけです。
蛇足ながら、「西軍総大将は豊臣秀頼」というのもよくある誤解ではないでしょうか。しかし、これはもちろん誤り。この時の豊臣家は、形の上ではどちらの味方でもありませんでした。なぜなら、家康は逆臣三成を、三成は逆臣家康を除くというのが、戦いへと踏み込んだ両者の建前だったからです。、つまり、両者豊臣の臣として、「豊臣家の御ため」に戦っており、豊臣がどちらに肩入れする筋合いでもないというわけです。
人質事件
細川ガラシャの名をご存知でしょうか。戦国大名・細川忠興の妻で、明智光秀の娘。ガラシャは洗礼名で、本名は「たま」といいます。館が敵に攻められた際、捕らえられることをよしとせず、しかし自殺を禁じられたキリシタン(キリスト教徒)であったことから、家臣に自らを殺させたという悲しいエピソードがよく知られています。このガラシャを攻めた敵というのが、実は三成の手の者でした。
家康が会津に進軍していた時期に三成が挙兵したことは前編でご紹介しました。この時三成は、家康に従った武将の妻子らを人質に取って彼らの動きを縛り、自らの陣営に引き込もうと企てたのです。そのターゲットの一人がガラシャだったわけです。
しかし、ガラシャに死なれて作戦そのものが頓挫。その上ただでさえない三成人気はさらに低下したといいます。
真田氏奮戦す
真田氏といえば痛快な戦を行うことで戦国ファンに人気のある一族です。この真田氏、関ヶ原の戦い本戦には参加していないものの、別の場所で大活躍を見せています。
話の主役は真田昌幸と信繁の父子。信繁は後世「真田幸村」の名で知られる武将です。
関ヶ原の本戦が始まる前、家康の息子である徳川秀忠は家康とは別に大部隊を与えられ、進軍していました。その途上には、真田氏の拠点・上田城があります。昌幸と信繁は西軍方であり、秀忠軍は上田城の攻略にかかることになります。
なお、真田昌幸にはもう一人、信之という息子があり、何とこの時の秀忠軍に参加していました。しかしこれは、昌幸と仲が悪くて縁を切ったとか敵方に走ったとかいうわけではありません。信之の妻が家康の重臣・本田忠勝の娘であるという関係からのなりゆきでした。そのためと言って適当かどうかは分かりませんが、この時も昌幸・信繁と信之が実際に戦うことはありませんでした。信繁と信之が相対する場面はあったものの、信繁が退いたのです。
ちなみに、このように親子兄弟が敵味方に分かれたのは、わざとであるとも言われています。こうして両勢力に付いておけば、豊臣が滅んでも徳川が滅んでも真田の血は残せる。そういう計算に基づく真田氏の大戦略だった、というわけです。真実がどうだったのかははっきりしませんが、実際、後年起こる大坂の陣に信繁は参戦して壮絶に散り、信之のほうは徳川政権下の大名として真田の血を後世に繋ぐのです。
さて、話をもとに戻しましょう。この時、およそ4万の秀忠軍に対し、真田軍はその10分の1程度の寡兵だったといいます。ところが、この戦力差をものともせず、昌幸と信繁は大奮戦し、秀忠軍を大いに苦しめます。
秀忠の面目は丸つぶれといったところですが、しかし、この戦いにはそれだけではない、大きな意味が生まれました。この戦いが混戦になったことで、大部隊の秀忠軍が関ヶ原の本戦に遅刻、参加できなかったのです。そもそもそれこそが昌幸の狙いだったのだという説もありますが、おかげで徳川軍は、関ヶ原の大事な本戦で頭数が半分しか揃わないという情けない状態に。家康は秀忠に対して激怒したとも伝わります。
この戦のせいで、秀忠は後世、ちょっと抜けているとか、戦が下手とかいうイメージで語られることが多くなっています。しかしながら、真田昌幸と言えば父の家康さえてこずったほどの武将。こうなったのも仕方がないという気もします。なお、後に江戸幕府二代目将軍となった秀忠は、家康の死後も力強く政務を執り、立派に幕府を支えました。
史上最大の裏切り
関ヶ原の戦いにおける超有名エピソードの一つに「小早川秀秋の裏切り」があります。秀秋は西軍として本戦に参加しますが、実は事前に東軍への寝返りを約束していました。こうして関ヶ原の松尾山に大軍勢で布陣するものの、秀秋はなかなか動きません。そこで家康は秀秋の軍勢に鉄砲で威嚇射撃を行い、それに驚いた秀秋はついに寝返りを実行する……という話です。
広く、騒々しい戦場で鉄砲云々の話は眉唾という主張もあるのですが、ともかく大軍勢で要地を受け持っていた秀秋の裏切りは西軍が崩壊するきっかけを作り、東軍勝利の大きな要因となりました。その意味では、以後の歴史の流れを決定づけた裏切りとも言えるわけで、「日本史上最大の裏切り」と形容されることもあるほどです。
さて、この小早川秀秋という人物、一体どのような経歴を辿ってきたのでしょうか。簡単にご紹介しましょう。
秀秋が生まれたのは天正10(1582)年ですから、織田信長の死んだ年です。父親は「おね」の兄です。おねとはご存知、秀吉の妻。つまり秀秋は、血はつながらないとはいえ、豊臣秀吉の甥っ子なのです。
そのような出自を持つ秀秋は、幼い頃から高い位や領地を与えられてきました。一時は秀吉の後継者候補でもあったのですが、秀吉に実子・秀頼が誕生した直後、中国地方の大名だった小早川家に養子に出されます。秀頼の障害になりそうな秀秋を、用済みとばかりに秀吉が追い払ったようにも見えてしまいますが、ともかくこの時に秀秋は小早川氏となるわけです。ちなみに、秀秋の義理の父となった小早川隆景(毛利元就の息子)は秀吉に目をかけられ、その後は五大老の一人にもなっていますから、一概に邪魔者を追い払っただけの処置とは言い切れないかもしれません。
そういうわけで秀秋は、小早川氏の後を継いで30万石の大名として歩み、運命の関ヶ原を迎えるのです。
関ヶ原で裏切りを実行した後、秀秋は家康によって55万石にまで加増されます。ところが秀秋は、そのわずか2年後に突然この世を去ってしまうのです。原因はよく分かっていませんが、ともかく変死であり、死ぬ前の期間は酒浸りになるなど、行いも異常になっていたと伝わります。
これが、小早川秀秋の生涯です。要約すれば、「おぼっちゃま」として大名の道を歩き、関ヶ原では松尾山でぐずぐず、家康に叱られてようやく寝返り、しかも裏切りのバチが当たったようにまもなく変死した、ということになるでしょうか。それゆえ、今も姑息な悪者のイメージがある武将です。
しかし、考えてみると、秀秋は天正10年生まれですから、慶長5年の関ヶ原では満年齢でわずか18歳ということになります。むろん、当時の18歳は立派な大人ではありますが、若者であることは確かです。ちなみに、上で大ぽかをやらかした徳川秀忠も若かったのですが、それでも当時、満年齢で21歳でした。
秀吉の甥・秀秋が、その出自ゆえに恵まれた道を歩いてきたのは事実です。しかしその分、普通の子供が味わわなくてもよい苦労も味わったことでしょう。秀吉の後継者候補としてちやほやされたかと思えば、突如養子に出された、などはその最たる例です。その後も、秀吉に難癖のようにミスをとがめられ、領地を取り上げられるということも経験しています。この歳にして、秀秋はとことん政治に振り回される人生を味わってきたと言ってよいでしょう。
そして、その極め付きが関ヶ原でした。わずか18歳で大軍勢を任され、しかも戦そのものの行方を左右する重大な裏切りを決断する立場におかれたのです。ぐずぐずするのも当たり前ではないだろうかとも思われます。では、小早川秀秋とは姑息な悪人などではなく、厳しい時代の荒波に翻弄され、自分の持つ器を超えたステージに引きずり出された悲運の若者であったのではないか。筆者などはそのように感じるのですが、いかがでしょうか。
今回は関ヶ原の戦いにまつわるエピソードをご紹介しました。天下分け目の大決戦にまつわる膨大なエピソードのほんの断片ともいうべきものですが、当時の事情や、武将たちの苦労、生き様をいくらかでも感じていただけたなら幸いです。
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