近日、歴史人物ポスター「壁歴」の戦国時代編が発売となります。これと関連し、今回は戦国時代の有名合戦「川中島の戦い」をご紹介しましょう。
戦いの発端
「川中島の戦い」。武田信玄と上杉謙信による戦国史上屈指の有名合戦です。この戦いは信玄と謙信が一挙に激突・決戦したものではありません。10年以上の期間、5回にわたって戦われた合戦の総称です。しかもそれらの戦いは、ほとんどが睨み合いのようなもので終わっており、激戦だったのは第4次の戦いだけでした。このため、その第4次の戦いを特に川中島の戦いと呼ぶ場合もあります。
第1次の川中島の戦いが起こったのは天文22(1553)年のことです。戦国時代が後期にさしかかったあたりというところでしょうか。参考までに、あの織田信長はこの年、満年齢で19歳の若者。まだまだ地方の小勢力に過ぎない存在でした。
さて、この頃、武田信玄は自らの根拠地である甲斐(現在の山梨県)から信濃(現在の長野県)への進出を企てていました。当時の信濃は豪族たちがそれぞれに支配していましたが、信玄はそれを次々と平らげます。敗れた豪族達は越後(現在の新潟県)の上杉謙信に助けを求めることとなりました。謙信はこれらを援助し、さらに自らも出兵して信玄と戦うのです。これが川中島の戦いです。
なお、川中島の戦いの期間、武田信玄は長く晴信と名乗っていました。上杉謙信に至っては、この期間に謙信と名乗ったことはありません。しかし、ここではよく知られている信玄と謙信の名で通すことにします。
続く睨み合い
信濃の北部、千曲川と犀川という2本の川の合流地点あたりの土地を川中島と言います。5度の戦いはいずれもこの川中島やその周辺で起こりました。信玄が甲斐から信濃を北上し、謙信が越後から南下し、この地において両者が衝突したということです。
先にも述べた通り、第1次の戦いが起こったのは天文22年。信玄32歳、謙信22歳の年です。この第1次の戦いは小規模で終わりました。続く第2次の戦いでは両者が半年ほども睨み合った末に、今川義元が間に立って和睦。第3次の戦いでは北方進出をうかがう信玄を謙信が迎え撃ちますが、やはり大きな戦いは起きないまま両者撤兵しています。
こうして眺めるとお互い固まったまま、何も変化のないように思えますが、実際は信濃の多くが信玄の勢力下に入ることとなっています。信玄は注意深く決戦を避けつつも、じりじりと信濃を侵食していくことに成功したと言えばよいでしょうか。一方、謙信は決戦を模索しつつも、いつも不発のまま撤退していた……これが、第4次の戦いが起こるまでの大まかな経過です。
決戦!
第4次の戦いが始まる前、謙信は幕府の「関東管領」という職についています。これをきっかけに謙信は関東地方へ出兵、関東の大勢力である北条氏康と戦い始めました。そこで氏康は、同盟者であった武田信玄に助けを求めます。これを受けて信玄は信濃北方への侵攻を再開しました。これによって謙信は関東から越後へ帰国。こうして第4次の戦いが起こるのです。永禄4(1561)年のことでした。
以下、有名なエピソードを追う形でこの戦いの内容をご紹介します。しかし注意したいのが、それらの内容が歴史的に確かではないということです。伝える史料の信憑性に疑問が持たれている部分もありますし、そもそもから現実味に欠けるエピソードもあるからです。この時、激戦があったことは間違いないが、細かな流れや有名なエピソードを見ていくと、後世の脚色が混じっている可能性がある。いや、もしかしたらかなりの部分が作り話かもしれない……というのが、第4次の戦いの特徴といえば特徴です。
■啄木鳥(きつつき)戦法
越後を出た謙信は川中島の南方、妻女山に布陣します。一方信玄はその北方・茶臼山に布陣し、後に移動して妻女山東方の拠点・海津城に入りました。
このような状況下で、武将・山本勘助らが兵を二手に分けて攻撃する作戦を立てます。つまり、武田軍を二つに分け、一方の部隊で妻女山を攻め、山を下ってきた上杉軍をもう一方の部隊で迎え撃つ挟み撃ち作戦です。これを「啄木鳥戦法」といいます。木の幹をくちばしで突つき、驚いて飛び出てきた虫を捕えるという啄木鳥の行動になぞらえたのです(ただし、実際の啄木鳥はこのようなことはしません)。
作戦が決まると、海津城ではその準備が始まりました。城からは大量の炊煙が立ちのぼります。この変化を見逃さなかったのが謙信でした。謙信は武田軍が動くと予感し、夜、密かに兵達を妻女山から下ろします。
そして啄木鳥戦法実施の朝。川中島近辺は濃霧に包まれていたと伝わります。その霧の中、味方に追い立てられて山から下ってくるはずの上杉軍を、信玄は待ち構えます。ところが、霧が晴れた時、驚くべきことが起こりました。かれらの前に、無傷の上杉軍が姿を現したのです。
海津城の炊煙を見抜いた謙信の眼力、上杉軍の密かな下山、そして霧の中から突如出現する上杉の大軍。これらは川中島の戦いにおける名場面中の名場面としてよく知られています。
ともかく武田軍の計画は完全に破綻しました。妻女山を攻めた部隊は空振り。挟み撃ちどころか、全軍を分断された形になりました。武田軍は残った半分の兵力で上杉軍と戦わなければならなくなったのです。これが9月10日のことです。
■車懸りの陣
武田軍を出し抜いた上杉軍は、車(車輪)のような陣形で武田軍に襲いかかります。これを車懸りの陣といいます。はっきりしたことは分かっていませんが、陣の一部隊が戦い、しばらくすると陣全体が回転して新しい部隊と交代、それを繰り返しながら戦う、といった陣形とも言われます。しかし、よく考えるとあまりにややこしい戦法。陣形を統御するのも大変ですし、戦うのが一部の部隊だけという点も気になります。兵力を一挙に集中させて相手を押し潰す方が理にかなうわけで、どうも作り話のようにも思われます。
■信玄・謙信一騎打ち
戦闘は上杉軍の圧倒的有利で進みました。この中で起こったと言われるのが信玄と謙信の一騎打ちです。座ったまま戦況を見守る信玄、そこに騎馬の武将が接近した。武将は信玄に一太刀浴びせ、信玄は軍配でそれを受け止める。騎馬武将はあっという間に去っていったが、それこそが上杉謙信その人であった……という話です。非常に有名な場面ですが、あまりにもドラマチックなため、これも作り話という説が強いようです。
その結果
このように、武田軍は非常に苦戦しましたが、やがて妻女山へ向かっていた部隊が戦場へと到着します。ここで戦いは上杉軍不利の流れに変わり、謙信は兵を退きます。これで合戦は終結しました。
戦国時代の合戦とは、布陣の段階で勝敗の決することがほとんどで、人的損害は案外に少ないものです。しかし、この戦いでは互いの損失が非常に大きくなりました。細かい数字は諸説あるものの、両軍の死傷者数はそれぞれ数千は下らないと言われます。しかも武田側は信玄の弟である武田信繁、武将の山本勘助、諸角虎定といった幹部級の人材も失いました。あまりの激戦であるため、この戦いは企図された激突ではないという説もあります。濃霧が招いた不意の遭遇戦だったのではないかということです。
勝敗については、はっきりと決まるものではありませんでした。上記の通り、両軍とも損害は甚大だったからです。ただ、戦後も信濃は信玄の勢力下に置かれたままだったため、この点は信玄の思い通りになったとは言えます。
この後、永禄7(1564)年には第5次の戦いが起こりますが、これは睨み合いで終わりました。そして、これ以後の戦いは起こっていません。
人々を魅き付ける戦い
川中島の戦いとは局地的な戦いです。5度の戦いを経て、信玄が信濃地方をようやく手に入れたというだけで、全国的な影響はそれほどありません。あえて言えば、信玄と謙信という巨大な2つの才能を10年以上も釘付けにし、疲弊させたことがその影響だったかもしれません。その一方で、この川中島の戦いが、歴史的な影響を超えて人々を魅き付けてきたことも確かで、そこが非常に面白く感じられます。
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