後藤象二郎。幕末・明治期を通して活躍した人物です。一般には土佐出身の維新志士として知られる名でしょうか。とは言え、土佐はあの坂本龍馬の出身地。あまりに大きな龍馬の影に隠れてしまっているのか、後藤の知名度・人気度は今ひとつ高くないようです。
今回は、そんな後藤象二郎の生涯を取り上げます。
昇進と失脚
後藤象二郎が誕生したのは天保9年の3月19日です。ちなみに、坂本龍馬が生まれたのは天保6年ですから、彼とは大体同年代。薩摩の西郷隆盛や大久保利通が生まれたのは文政(天保の前の元号)の終わりで、それよりは少し年下ということになります。生誕地は土佐(今の高知県)の片町で、幼なじみに明治期に自由民権運動をリードした板垣退助がいます。
象二郎が生まれたのは普通の武士の家です。父が少年時代に亡くなったため、象二郎は祖母や叔父に育てられました。そして、この叔父というのがなかなかの有力者で、その縁から、象二郎の人生が動いてゆくことになるのです。
叔父の名は吉田東洋といいました。東洋は家格こそ後藤家とあまり変わらなかったものの、その能力が評価されて土佐の藩政で重きをなした人物です。幕末史が好きな方には周知の人物でしょう。少年時代の象二郎は、この東洋の塾に通って学問を身につけました。やがて成長した象二郎は、東洋の推挙も得て、藩政に関わるようになってゆきます。二十歳頃にはすでに郡奉行となり、ほどなく普請奉行の地位にまで上りました。象二郎の英才がうかがえます。しかし、そこで象二郎の身に災難がふりかかります。
当時(文久時代、1860年代初頭)の土佐藩政は、開国をめぐって揺れていた中央の政治情勢を受け混沌としていました。さまざまな政治思想が対立し、その時は過激な尊王攘夷を掲げる「土佐勤王党」という組織が力を伸ばしていました。一方、この時の藩主・山内容堂(豊信)は公武合体派(朝廷と幕府が協力して政治を行う)的な思想の持ち主で、彼らとは一線を画す立場でした。そんな中、藩政改革派にして山内容堂の側近だった吉田東洋が狙われ、暗殺されてしまいます。これに伴い、東洋の縁故だった象二郎も失脚するのです。
藩政復帰、そして龍馬との出会い
しかしながら、象二郎はまもなく藩政への復帰を果たします。象二郎を取り立てたのは山内容堂でした。
話が前後しますが、山内容堂について少し解説しておきましょう。実は吉田東洋の暗殺より前に、容堂は藩主を引退しています。将軍継嗣問題、安政の大獄といった当時の政局が影響し、隠居を余儀なくされたのです。後に安政の大獄を主導した井伊直弼は暗殺されるものの、容堂の影響力は回復しませんでした。今度は国許で土佐勤王党が藩政を掌握したためです。しかし、その状況が中央における政変などでさらに一変します。尊王攘夷派が力を失い、土佐勤王党の勢力は縮小、山内容堂も前藩主として政治に大きな影響力を持つ存在に返り咲いたのです。これに伴い、東洋の弟子である象二郎も復帰しました。
さて、復帰した象二郎が行ったのは土佐勤王党の処罰でした。むろん容堂の意を受けての事ですが、象二郎にしても叔父で師である人を殺されたわけですから否やはなかったでしょう。これにより土佐勤王党リーダーの武市瑞山は切腹処分となり、土佐勤王党は壊滅しています。
ちなみに、この武市瑞山は別名を武市半平太といい、そちらの名の方が有名かも知れません。才気にあふれる人物だったと伝わり、もし生きていれば後の日本のリーダーになっていただろうという評価もあるほどです。
さて、象二郎はこれ以後、東洋の藩政改革路線をしっかりと受け継ぎ、土佐藩の重役として腕をふるいます。その仕事の中で生まれたのが、同じ土佐出身の坂本龍馬との付き合いでした。
龍馬はもともと土佐勤王党のメンバーでしたが、早々に党のやり方に見切りを付け、藩そのものを抜けて一人で活動していました。そのため、土佐勤王党の弾圧には遭っていません。ただし、脱藩の罪は残っており、土佐藩とは断絶の状態でした。
その龍馬と象二郎が会談したのは慶応3(1867)年のことです。この時の龍馬は、仲介役として薩長同盟を成立させ、また、貿易会社・亀山社中のリーダーとしても活動するなど、言わば脂の乗り切った頃でした。この龍馬の持つコネクションや行動力を象二郎は高く買い、藩に協力してもらうことを決断します。象二郎の尽力の結果、龍馬は脱藩の罪を許され、亀山社中も公式に土佐藩の支援を受ける「海援隊」として生まれ変わりました。また、個人としても象二郎と龍馬は意気投合したと伝わっています。
大政奉還に関わる
象二郎と龍馬の仕事として最も有名なのが大政奉還の推進です。
坂本龍馬が京都に向かう土佐藩船の中で作成したとされる「船中八策」という文書があります。これはこの後の政治の方向性を示す提案メモといった書類ですが、これが書かれた藩船には藩の重役である象二郎も乗り込んでいました。このことから、「船中八策」は龍馬の手から象二郎の手に渡り、象二郎によって山内容堂に示されます。
「船中八策」には数々の重要なアイデアが書かれていますが、中でも大きかったのは「大政奉還」の構想でした。当時は幕末も末、いよいよ倒幕の空気が濃くなっていた頃で、その推進役は薩摩と長州の二藩。一方、土佐藩はというと、山内容堂の考えがどうしても倒幕に傾き切らず、どうにも中途半端な立場にとどまっていました。
そんな中で降って湧いたように出現したのが大政奉還という構想です。幕府が政権を朝廷に返上するという仰天の構想でしたが、なるほど武力倒幕(内戦)を避けつつ、旧秩序を穏やかに終焉させ、かつ後々の徳川家の影響力も確保できそうな妙案です。容堂はこの構想を受け入れ、土佐藩として大政奉還を将軍・徳川慶喜に建白しました。前記の目論見のいくつかは外れたものの、策そのものは的中し、結果、大政奉還が実現したのは日本史に示されている通りです。龍馬が提案し、象二郎が土佐藩に働きかけて勧められた大政奉還。これは幕末史の一つのクライマックスとなりました。
その後の象二郎
幕末における象二郎の主な働きはここまでです。この後、坂本龍馬は暗殺されましたが、象二郎は動乱の時代を生き延びました。その後の象二郎はどうしたでしょうか。
維新後、象二郎は新政府に出仕して参議などのポストにつきます。しかし、征韓論による政争から、まもなく政府を去ってしまいます。野においては板垣退助などと共に自由民権運動を推進しますが、後に再び政府側につき大臣職を歴任しました。また、この間、炭坑経営などにも手を出しています。そして1897年8月4日、後藤象二郎は59年の生涯を閉じます。
これらの経歴を見ると、どうにも落ち着かない印象を受けます。どっかり腰を据えて新政府で働くでもなし、自由民権運動を強力に進めて、外から日本の政治を鍛えるでもない。後半生の立ち回りが、後藤象二郎の名を今ひとつのものにしているとも言われますが、頷けるところがあります。
とは言え、英雄は死んでしまったから英雄だったという面もなくはないはずです。才気にあふれていた武市瑞山も、誰もが認める大英雄・坂本龍馬も、もし生き延びていたらどういう働きをしたか、それは誰にも分かりません。土佐の藩政を引っ張り、龍馬と意気投合して大政奉還の舞台裏を支えた後藤象二郎。彼の人生は「英雄のその後」を見せてくれているようで興味深いものがあります。
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