今月は幕末の思想家、吉田松陰をご紹介します。
松蔭と言えば、松下村塾を開き、数々の維新志士を教えたことで有名です。このことから、落ち着いた教育者をイメージされる方も多いでしょうが、実際の松蔭はそれとは少々異なる人物でした。
兵学者の家を継ぐ
吉田松陰は文政13(1830)年8月4日に、杉百合之助という長州藩の下級武士の家に誕生しました。松蔭という名は後の号で、幼名は虎之助といい、その後もいろいろと改名しています。(ただし、以下では松蔭の名で統一します)
4歳の時、松蔭は吉田大助という叔父のもとへ養子に入りました。ところがその叔父が翌年に急死し、松蔭はわずか5歳にして吉田家を継ぐことになります。
この吉田家は藩の兵学者の家柄でした。ですから家を継いだ松蔭も兵学者の道を進むことになります。松蔭を指導したのは玉木文之進という別の叔父でした。
玉木叔父の指導は大変に厳しかったといいます。しかし松蔭はその教えをよく吸収しました。10歳のころには藩主に直接講義を行うまでになっていたというのですから、才能に溢れた少年だったことがよく分かります。
ちなみに、松蔭の塾として有名な「松下村塾」ですが、実はこの玉木叔父が設立したものです。それを後に松蔭が継承するのです。
学問の旅
松蔭は20歳頃から見聞を広めるための旅行や遊学にたびたび出ました。まず行ったのは九州です。藩主の許可を得て長崎や熊本を旅しました。続いて、藩主の参勤交代に従い、江戸へと出ます。江戸においては何人かの学者に教えを受けました。その中には洋学者の佐久間象山などがいます。
次に旅行を計画したのが東北です。ところがこの東北行に際し、松蔭は一騒動起こしてしまいます。この旅行は友人らと連れ立って行く予定だったのですが、藩からの許可がなかなか下りませんでした。友人らと約束しているのに、許可が下りなければそれを守れない……それを嫌った松蔭は許可のないまま出発してしまったのです。実はこの行為、ただの規則違反で済むものではありません。国外逃亡とほぼ同じ意味の「脱藩」であり、重罪です。案の定、松蔭は旅行を終えて江戸に戻ると捕らえられてしまいます。そのまま松蔭は長州に送り返され、藩士の身分を剥奪されるという処分を受けました。
悲劇なのか喜劇なのかよく分からないエピソードですが、ここには松蔭の特徴がよく表れています。それは一本気で行動家という、およそ学者・教育者らしくない気質です。
さて、罰せられた松蔭でしたが、それを救ったのは長州藩主でした。藩主は松蔭に10年間の諸国遊学を許可するという形で自由を与え、松蔭は再び江戸へと遊学することができました。藩主は松蔭の才能や人柄を高く評価していたものと思われます。
密航計画
そのようなことがあった後、松蔭の心を大きく揺さぶる事件が起こりました。それはあの「黒船来航」です。
松蔭は来航した黒船を見に行きました。その姿は松蔭に衝撃を与え、日本と西洋の差を痛感させました。その思いはやがて、自ら西洋に渡り、西洋諸国を知るという決意に変わってゆきます。師・佐久間象山の教えの影響もありました。
むろん、これは途方もない計画でした。幕府すら西洋諸国とはほぼ国交を持たなかった時代なのです。普通の人間なら、想像もできないことだったでしょう。しかし松蔭はそれを実際に行動に移してしまうのです。
まず松蔭は来航中のロシア船に乗り込もうと長崎まで行きます。しかし、松蔭が長崎に着いた時には船は既に出航しており、計画は頓挫しました。
しかし松蔭は諦めません。続いて、再来航したペリーの船に乗り込むことを計画します。松蔭は停泊していた艦隊に小舟で接近し、なんと乗船することに成功します。しかし、上手く行ったのはここまで。アメリカ側が松蔭の乗船を拒否したため、計画は断念されました。要するに密航の手助けをしてくれ、ということですから、拒否されるのも当然のことでした。
計画を失敗した松蔭は、密航を企てたことを自首します。その結果、松蔭は長州へと送り返され、投獄されました。なお、この件では佐久間象山も松蔭に連座し、蟄居させられています。
松蔭が入れられた獄は「野山獄」といいます。この獄において松蔭は書物などの差し入れを受けて学問を行っています。さらに、周りの囚人に対し「孟子」の講義までしたといいますから驚きです。野山獄は武士用の獄で、締め付けもあまり厳しくなかったとされますが、それにしても独特の感覚の持ち主ではないでしょうか。
やがて松蔭は獄を出て実家に戻りました。ただし完全に許されたわけではなく、実家で謹慎生活を送ることになったのです。ところが、実家での松蔭は謹慎中にもかかわらず、弟子などに対して講義を始めます。この講義は評判を呼び、受講生も増えたため、ついに松蔭は自らの塾を開いてしまいました。塾の名は、玉木叔父の塾の名を受け継ぎ「松下村塾」としました。
過激化、そして……
さて、ここで政治情勢に目を移します。中央で問題になっていたのが、アメリカとの通商条約締結についてでした。詳しく解説することは控えますが、この問題は、将軍の後継者問題なども絡む形で幕府を大いに揺さぶりました。最後には大老・井伊直弼が勅許なしに条約を締結するという荒技をやってのけ、問題は一応の解決をみます。しかし、この条約調印が世の尊攘派志士に火をつけ、政治情勢はさらに混沌としてゆくのです。
この頃、松蔭は朝廷と幕府が助け合って日本を作ってゆくべきという考えを持っていました。しかし、条約問題の成り行きを見た松蔭は怒り、考え方も倒幕の方へと傾いてゆきます。朝廷をないがしろにするやり方がおかしいことを藩に訴え、ついには幕府の要人を暗殺する計画を立てるところにまで行き着くのです。
これに驚いたのが長州藩です。藩内で自説を説いているだけならまだしも、幕府要人暗殺計画というのは一線を越えています。松蔭の計画が幕府に漏れれば、藩の責任を問われる可能性すらありました。長州藩はついに松蔭を捕らえ、まるで隠すようにあの野山獄へと押し込めるのです。
しかし、獄中の松蔭は消沈するどころか、さらに過激になってゆくようでした。例えば、参勤交代の途上、京都のあたりで藩主を朝廷の重要人物と面会させ、藩を倒幕に向けて立ち上がらせる、というような策を立てています。要は藩主拉致計画プラス幕府転覆計画です。
そしてついに、そんな吉田松陰の存在に、幕府が気付いてしまいます。この時、中央では「安政の大獄」が進行中でした。ご存知、反幕府、反井伊直弼の人物が次々と逮捕された事件です。幕府はそれに関連し、吉田松陰の噂をキャッチしたのです。松蔭は幕命によって江戸へと護送され、取り調べを受けることになりました。
とはいえ、この時点で幕府側は、せいぜい松蔭と尊攘派の人物との交流を疑っていたに過ぎませんでした。しかし松蔭は取り調べが始まると、幕府要人暗殺計画や藩主拉致計画などの詳細を述べてしまうのです。自分の計画や思いを包み隠さず話せば気持ちは伝わる、そう考えてのことだったといいます。
むろん、幕府に対してそんな理屈が通じるはずもありませんでした。そして、ついに松蔭は処刑されることに決まってしまったのです。
こうして安政6(1859)年の10月27日、吉田松陰は斬罪となりました。まだ29歳という若さでした。
松蔭がのこしたもの
吉田松陰の人生をたどってきました。冒頭で触れた通り、教育者、思想家のイメージとはかけ離れた、あまりに真っ直ぐな生き様ではなかったでしょうか。ここでは紹介しませんでしたが、松蔭の著作や和歌なども、びっくりするくらいの熱がこもったものばかりです。
松蔭の塾では数々の人材が育ちました。高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、久坂玄瑞……直接の塾生ではないものの、木戸孝允も松蔭の教えを受けた人物です。かれらは松蔭の学識だけではなく、その純粋さ、生き様にも魅かれていたに違いありません。
彼ら門下生の中には、明治政府を引っ張る大物になった者が何人もいます。彼らを通して、松蔭の思想は日本の近代に一定の影響を与えたとも言われます。
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