歴誕ホームへ歴誕カレンダーとはWEB歴誕カレンダー歴誕通販れきたんQ&A個人情報について通信販売表示
れきたん歴史人物伝歴誕制作ばなしれきたん壁紙リンクお問い合わせオーダーメイドカートの中身を見る

    

れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


8月号 2012年08月31日更新

【今月の歴史人物】
幕末維新の隠れた大物
横井小楠
文化6(1809).8.13〜明治2(1869).1.15

今月号のイラスト
横井小楠
刀を忘れたら逃げなしょうないねん
(C) イラストレーション:結木さくら


8月の主な誕生人物
01日 ラマルク/博物学者
01日 団琢磨/実業家
01日 室生犀星/小説家
01日 メルビル/小説家
02日 三浦梅園/江戸時代の学者
02日 速水御舟/画家
03日 新戸辺稲造/教育者
03日 豊臣秀頼/武将
04日 吉田松陰/幕末の教育者、志士
04日 シェリー/詩人
05日 玄宗/唐王朝第六代皇帝
05日 モーパッサン/小説家
06日 フレミング/細菌学者
06日 テニスン/詩人
07日 リッター/地理学者
07日 司馬遼太郎/小説家
08日 ディラック/物理学者
09日 源実朝/鎌倉幕府三代将軍
09日 ドライデン/詩人
10日 大久保利通/政治家
11日 亀井昭陽/江戸時代の儒者
11日 幣原喜重郎/政治家
12日 シュレーディンガー/物理学者
13日 横井小楠/幕末の儒学者
14日 シートン/動物学者、作家
15日 ナポレオン/軍人、政治家
15日 山東京伝/戯作者
15日 高島秋帆/砲術家、兵学者
16日 山鹿素行/江戸時代の儒者
16日 スタンリー/生化学者
17日 クロケット/政治家、開拓者
18日 最澄/平安時代の僧
19日 ライト(オービル)/発明家
20日 高杉晋作/幕末の志士
21日 ビアズリー/画家
22日 足利義満/室町幕府三代将軍
22日 ドビュッシー/作曲家
23日 三好達治/詩人
24日 平田篤胤/江戸時代の国学者
24日 若山牧水/歌人
25日 榎本武揚/政治家
26日 ウォルポール/政治家
27日 ヘーゲル/哲学者
28日 ゲーテ/詩人、小説家
28日 杉村楚人冠/ジャーナリスト
29日 メーテルリンク/劇作家、詩人
29日 コルベール/政治家
30日 ラザフォード/物理学者
30日 ファントホッフ/化学者
31日 鏑木清方/画家

横井小楠(よこいしょうなん)といえば、幕末の人物の中ではそれほど一般的な知名度が高くないかも知れません。出身もいわゆる薩長土肥の雄藩ではなく、熊本藩。しかしながら、その才は当時において高く評価されていた人物です。

江戸遊学と酒のトラブル
横井小楠は熊本藩士の次男として文化6(1809)年の8月13日に熊本で誕生しました。小楠というのは後の号で、名は時存(ときあり)といいますが、ここではよく知られる小楠の呼び方で通します。
少年時代の小楠はたいへん聡明だったようです。9歳頃には藩校に入学し、28の年には居寮長(塾長)の立場にまで上がっています。
30歳の年、小楠は藩の命令で江戸へ遊学します。江戸では水戸藩政の重役だった藤田東湖や、幕末の外交交渉に大きな実績を残した幕臣・川路聖謨などと交流し、学問や政治についての見識を深めました。
しかし、そんな江戸遊学も、わずか1年後、藩に呼び戻されるという形でぷっつりと終わってしまいます。なぜ呼び戻されたか。その理由は何と、酒に酔ってのトラブルでした。
その顛末はこうです。ある時、前述の藤田東湖を囲んだ酒宴が開かれました。この宴で、酒に酔った小楠は政治について語りました。これが周囲に絡むような激しい調子になり、またその内容も政治批判的なものであったらしいのです。このことが熊本藩に伝わって、けしからんということでとうとう呼び戻されてしまったというわけです。小楠という人物は酒豪ではなかったものの酒好きで、しかも酔うと議論をする癖もあったようです。

地元での活動
こうして小楠は熊本に帰りました。体裁の悪い帰藩だったわけですが、この機会に小楠は再び自らの学問を磨き直し、さらには仲間を集めて研究会を開きました。ちなみに、この研究会には後に「教育勅語」の起草などに関わる元田永孚などが参加していました。
このような状況の中で、小楠の中で確立していった考え方が「実学」です。当時の主流の学問である儒学を基本にしつつ、実際の役に立つ学問、効果がある学問をめざしたのです。
さらに小楠は私塾も開きました。さまざまな塾生が集まりましたが、ことに小楠のその後の運命を変えたのが、小楠が40歳のころにやってきた人物です。それはある福井藩士で、福井藩の指令により、良質の儒学者を捜すために各国を回っていた人物でした。彼によって小楠の名は福井へと伝わりました。さらに福井藩から学問的な質問が届き、それに対して小楠が回答し……ということがあって、安政4(1857)年、小楠は福井藩から招聘されることとなるのです。
ただし、この招聘については、当初熊本藩が難色を示しました。小楠は藩士として問題のある人物で、他藩に出すことはできないというのです。この問題は両藩の藩主が直接やりとりするなどして、ようやく許可するということで決着しました。

福井での活躍
福井において小楠は好待遇で迎えられ、藩校での講義などを行いました。以後、小楠は福井藩に何度も呼ばれ、また藩政改革にも深く関わりました。その内容は、実学を重んじた小楠らしく、産業や貿易を振興させることを重視し、これによって福井藩は実際に大きな利益を上げています。
さて、この時の福井藩主、要するに小楠を評価して用いた人物ですが、名を松平慶永(春嶽)といいます。慶永は幕末における幕府重要ポスト「政治総裁職」に就いたことで有名な人物であり、小楠はこの慶永のアドバイザーといった位置で幕政改革にも関わることになりました。
このつながりにおいて慶永や幕閣に披露された文書があり、それを「国是七条」といいます。「将軍は上洛して朝廷にこれまでの政治を謝る」「参勤交代を廃止する」「能力によって優秀な人材を登用する」「言論をひらいて公共のための政治をする」等々、近代国家樹立に向けての大きな枠組みを示すもので、これは幕府によって非常に高く評価されました。一時は小楠を幕臣として取り立てる動きさえ出ましたが、それは実現しませんでした。熊本藩の反対があったためと言われます。しかしながら、当時において小楠の能力は、一地方の政治改革者に留まるものではなく、国政で用いる価値のあるものだと評価されていたことが端的に分かるエピソードです。
さて、幕臣にはなれなかったものの、この後の小楠は中央政界で存分に活躍してゆく……と言いたいところですが、現実はそう順調には進んでいません。中央の政治は小楠一人が有能だからといって劇的に変わるものでもないような、なかなか難しい状況でしたし、それでなくとも、小楠の身にある災難が降りかかってしまったからです。

「士道忘却」
災難とは「士道忘却事件」などと呼ばれる事件です。この当時は思想家や政治家、志士にとって非常に物騒な世の中で、暗殺だの襲撃だのということが頻繁にありました。そんな空気の中、小楠もとうとう刺客によって襲われたのです。
文久2(1862)年、小楠は江戸におり、知り合いの家で酒を飲んでいました、この時に刺客の襲撃があり、丸腰だった小楠は家を飛び出し、少し離れた福井藩の屋敷へ戻って刀を取り、また現場へと引き返しました。しかしすでに刺客の姿はありませんでした。
……という事件ですが、これが熊本藩によって問題視されます。丸腰とはいえ刺客と向き合わず、屋敷に刀を取りに戻ったのは、士道を忘れ去った行為である、というのです。これによって小楠は熊本へと連れ戻されそうになります。これが案外深刻なことで、送還されたが最後、小楠は死罪となる可能性もありました。これを憂えたのが松平慶永で、みずから小楠をかばい、その甲斐あって小楠は熊本ではなく福井藩に一時引き取られることになったのです。
こうして小楠はどうやら命拾いしましたが、中央政界では非常に動きにくい立場に追い込まれました。そして結局は熊本藩へと帰ることになってしまいます。
藩に帰った小楠には、士道忘却事件の罰が待っていました。慶永のとりなしもあって死罪は免れたものの、士籍剥奪という重い処分が下り、ついに小楠は政界から一時退場といった形になってしまいました。以後、故郷での小楠はすっかり大人しく暮らしました。ただ、あの坂本龍馬などが面会に訪れたりといったことはありました。
ところで、ここまで熊本藩が小楠にかなり冷淡だったことが気になる方もおられるかと思います。士道忘却事件ではもちろんのこと、かつての酒席トラブルの時も、福井藩からの招聘の時も、思えば熊本藩は小楠に厳しくあたりました。これはなぜでしょう。
どうやら熊本藩は、開明的な思想を持ち、時に政治批判も行う小楠を要注意人物として警戒していたようなのです。このために熊本藩は、小楠の活動に対し、妨害的とさえ言えるスタンスで対応したと考えられています。

小楠の最期
やがて大政奉還が行われ、明治政府がスタートすることになりましたが、この時、小楠にもお呼びがかかりました。熊本藩は性懲りもなくそれに難色を示したのですが、もはや時代は変わっています。それを貫き通せるはずもなく、いよいよ小楠は明治政府に出仕することとなったのでした。明治元(1868)年、小楠59歳の年です。この頃の小楠は体調を崩しがちだったものの、明治政府参与として新しい国づくりに尽力し始めます。しかし、その直後に事件は起きました。
それは明治2年1月15日のことでした。この日、横井小楠は攘夷派の刺客によって暗殺されてしまったのです。暗殺の理由は「小楠が日本のキリスト教化を進めようとしている」というわけのわからないものでした。刺客に襲われた時、小楠は病身ながら脇差を取って奮闘したといいます。
こうして横井小楠は60年の生涯を閉じました。かの勝海舟は「今までに恐ろしい人物を二人見た。それは西郷隆盛と横井小楠である」といった意味の言葉を残しています。幕末・維新期において、もう少し先の人生を見てみたかった人物といえば枚挙に暇がありませんが、小楠もその一人でしょう。地方政治中心に活動した小楠が、国政で存分に実力を発揮するところを見たかったものです。

 


ホーム歴誕カレンダーとはWeb歴誕カレンダー歴誕通販れきたんQ&A個人情報について通信販売表示

取扱店・プレスリリースれきたん歴史人物伝れきたん編集室れきたん壁紙リンクお問い合せ


Copyright (C) 2012 有限会社 秋山ワークス