平安時代。現代まで続く日本文化の源流が形作られた時代ともいえ、この時代の文物で、歴史上重要なものはたくさんあります。
今月はそのなかのいくつかをご紹介いたしましょう。
平等院鳳凰堂
京都・宇治に建つ「平等院鳳凰堂」。時の関白・藤原頼通が開いた寺院です。
宇治の地はもともと貴族の別荘地で、平等院のあった場所もそうでした。それが摂関政治の頂点を極めた大権力者・藤原道長の手に渡り、その別荘となります。道長の没後、その子であり、同じように長く権勢を誇った頼通が寺院に改めました。これが平等院です。
当時の社会では「末法思想」というものが信じられていました。すなわち、釈迦の教えが正しくおこなわれる世が過ぎ、それが全くおこなわれない最悪の世(末法)がやってくるという考え方です。この末法に備え、当時の貴族たちは救済を願い、寺院などをさかんに造営したのです。平等院がつくられた理由の一つもこれで、平等院が創建された永承7(1052)年は末法の元年とされていたのです。
鳳凰堂が建てられたのは平等院創建の翌年、天喜元(1053)年です。左右対称の美しい表情は、まさに極楽浄土をイメージさせるようなみごとなものです。なお、もともと平等院には、鳳凰堂以外にもさまざまな堂塔が存在していましたが、歴史の激動の中で失われ、現在は鳳凰堂が残るのみです。
ちなみに、平等院鳳凰堂といえば、10円玉の図案としてよく知られていますが、10円玉だけではなく、1万円札にもその姿が描かれているのをご存知でしょうか。1万円札の裏面に鳳凰の絵が描かれていますが、実はこれが平等院鳳凰堂の鳳凰像なのです。
三十三間堂
天台宗・妙法院の仏堂であり、正式には「蓮華王院本堂」といいます。つくったのは後白河上皇。平安末期、武士の世に移り変わるその境目の時代に活躍した人物です。もともとこの近辺は「法住寺殿」という後白河上皇の離宮があり、三十三間堂はそれに付随するものとして創建されました。完成は長寛2(1165)と伝わります。
三十三間堂という通称は、本堂内陣の柱間が三十三ある、というところからきており、三十三とは観音菩薩が三十三身に変化することに由来する数字です。
堂内には千一体におよぶ千手観音像が安置されています。三十三間堂を訪れたことのある方ならよく分かると思うのですが、この膨大な仏様が並んだ雰囲気は、荘厳と言おうか、壮観と言おうか、ともかく独特のものがあります。
なお、像のうち、創建当時につくられたものは全体の1割ほど。これは、鎌倉時代に火災があったためで、そのときに救い出された像がそれだけだからです。残りは鎌倉時代に作り直されたものです。本堂も鎌倉時代に再建されたものです。
東寺五重塔
東寺は教王護国寺ともいい、もともとは平安京の成立間もない時期、桓武天皇の命によって創建されました。もとは東寺、西寺と対であったのですが、西寺はすでにありません。
創建からしばらく経った弘仁14(823)年、東寺は真言宗の開祖であった空海に下賜されます。これにより東寺は真言密教の根本道場となり栄えるのです。
五重塔はこの東寺の中の一つの施設です。国宝であり、木造の塔としては日本でもっとも高いものです。その創建はもちろん平安時代ではあったのですが、火災によって幾度も消失し、現在の五重塔は、実は江戸初期に再建された五代目の塔です。
とはいえ、東寺五重塔は、古都京都を代表する建造物として広く知られており、京都をテーマとする写真やイラストにはよくその姿が表現されています。「東寺の五重塔」というより、「京都の五重塔」として、京都のイメージを担う存在でしょう。
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