今月ご紹介するのは、幕末の思想家、佐久間象山です。幕末史を語る際、前面に出てくる人物ではないものの、知名度は高く、何より育てた弟子の名がものすごい。間違いなく幕末のキーマンといえるでしょう。
学問の道
佐久間象山が生まれたのは信濃国(現在の長野県)松代藩。今話題の「真田氏」が治めてきた藩です。象山の父はその藩士で、剣術の達人だったと伝わります。幼名は啓之助といい、のちに国忠ほかの名に改名しますが、ここでは号の象山で通します。
ちなみに「象山」とは「しょうざん」とも「ぞうざん」とも読みます。どちらが正しいのか、どちらも正しいのか、そのあたりは諸説ありますが、現在、一般的には「しょうざん」と読まれることが多いようです。
象山は幼少期から儒学を学び、そのまま儒学者への道を歩み始めます。ひじょうに優秀で、その力量は藩主にも知られるほどだったといいます。
若き日の象山は江戸で本格的な学問をしたいという希望を持っていたようで、その希望は藩主によって許可されます。象山が初の江戸遊学をしたのは22歳の年でした。
名を高める
江戸での象山は、当時の大家だった佐藤一斎という人物のもとで儒学を深く学んでいきます。なかなかくせのある性格だったようで、学問について師と対立しても、頑として自説を曲げないようなことがあったといいます。
遊学を終えた象山は一度故郷に帰りますが、しばらくしてもう一度江戸へと出て、このときは「象山書院」という私塾を開いて弟子を教育するほど、学者として進歩していました。その名声も高まりつつあり、さまざまな知識人と交わってもいます。
しかしながら、このときの象山はあくまで伝統的な儒学者でした。しかし、藩主の真田幸貫が老中に就任して幕府海防掛を命ぜられます。それにともない、象山も幸貫のブレーンとして、海外情勢を研究することとなります。これが、象山の運命を変え、幕末のキーマンとしての道を歩み始めたといってもいいかもしれません。
海外を学ぶ
当時の日本はまだ、いわゆる鎖国の中にありましたが、海外は激動していました。ことに、清国がイギリスに徹底的に打ちのめされたアヘン戦争のインパクトは大きく、これは日本にも伝わっていました。象山はこういった海外情勢、また砲学、兵学も学び、「海防八策」という文書を藩主に提出します。これには砲台を作り、軍艦を建造すべきことや、能力に応じて人材を登用することなどが書かれています。
象山の学問はここからさらに進み、蘭学を通した西洋科学の研究を開始します。ここまでの象山は、漢語に翻訳された洋書によって学んでいましたが、オランダ語を学び、原書によっての学習を行います。蘭学をはじめた象山はなかなか面白いこともやっています。例えば、殖産興業を志向し、ガラスの製造実験や養豚業のテストを行いました。日本で初めて電信機の実験も行っています。
このように、象山の学問に対する姿勢は大変合理的でした。いいと感じたものはどんどん学び取っていき、実践する姿勢を持った学者だったのです。
運命の変転
象山は松代藩士で、江戸に住み、藩に帰りということを幾度か繰り返しながら、藩のためにさまざまな研究をしていました。しかし、江戸に本格的に移住したいというのがたっての希望だったようで、それは藩の許可を得て、40歳の年にかなえられます。ついに江戸に移住した象山は自らの塾を開きます。すでに西洋兵学、蘭学の大家だった象山の塾には、そうそうたるメンバーが集まっています。幕臣として維新期に重要な役割を果たした勝海舟、名だたる志士を育成した吉田松陰は象山の門下です。ごく短い期間ではあったものの、あの坂本龍馬も象山に入門しています。ちなみに、このころ象山は結婚もしており、相手は勝海舟の妹です。
順調に見えた象山の学者人生でしたが、ここで大きなつまづきに見舞われます。きっかけはかのペリー来航。象山は藩士の立場からその対応策をさまざまに提案しており、それはよかったのですが、問題は弟子の吉田松陰で、かれは何と、ペリーの船に乗り、アメリカへ密航しようと企て、実際にペリー艦隊まで小船で近づき、乗船までしました。しかしこの計画は頓挫し、松蔭は捕まりました。師の象山も罪に問われ、およそ8年もの間、蟄居させられるのです。この期間、象山を縛り付けていたことは、激動の時代にあって、幕府にとってかなりの損失だったに違いありません。
ふたたび表舞台へ、しかし
蟄居を解かれた象山は幕命により京都入りし、のちの将軍、一橋慶喜や朝廷の主要人物らと接触します。そこで開国論を説くのです。この活動は象山にとって手ごたえのあったもののようでしたが、象山の運命はここで尽きます。尊攘派の暴力が吹き荒れる当時の京都で、象山の活動はあまりに危険でした。象山は暗殺者の凶刃に倒れます。時は元治元(1864)年、象山53歳。明治維新まであと4年の年でした。
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