高橋是清といえば、戦前を代表する政治家の一人。特に経済分野での実績が顕著で、現在でも経済問題を語る際、彼の名を見かけることがあります。今月は、この高橋是清の生涯を追ってみましょう。
生い立ちとアメリカ行
高橋是清の若年時代はなかなかに波乱万丈です。彼は嘉永7年の7月27日に、江戸に生まれました。家は武士の家ではなく、狩野派の絵師の家。嫡男ではなく、主人が侍女に産ませた子でした。
是清の誕生について、主人もその正妻もそれを疎むということはなかったようですが、すでに子が多かったことから、仙台藩士の家に養子に出されました。それが高橋家です。高橋家において是清はよく可愛がられました。
是清が10歳の頃、藩のはからいにより、横浜において英語教育を受ける機会を得ます。時代は幕末、日本がさまざまな面で変化している真っ只中のことです。
2年ほど横浜で英語を学んだ後、是清は藩の命令によってアメリカへ留学することになります。ところが、このアメリカ留学において、是清は大変な目に遭うのです。
苦難のアメリカ生活
アメリカへ渡った是清は、ヴァンリードという商人の家にホームステイすることになりました。ところが、その後の様子がおかしいのです。留学にきたのに学校へ通わせてもらえるわけでもなく、いくらかの食事を与えられながら召使のようなことばかりやらされたからです。
それもそのはず、このヴァンリードという人物は大変な食わせ物で、是清の学費などを着服し、いいようにこき使っていただけなのです。しかも是清がそれに不満を表明すると、騙して他所の家に是清を売ってしまいました。繰り返しますが、これは藩命による留学中の出来事です。
その後も是清は苦労を続け、さまざまに働いて暮らすのですが、そのうちに幕末も末という時期にさしかかった日本国内の混乱ぶりが耳に入ってきました。自分の仙台藩も大変な状態ということがわかり、是清は帰国の決意をします。つてを頼り、どうにか帰国の手はずをととのえ、日本の土を踏んだのが明治元(1868)年末のこと。こうして、おおよそ2年の留学(?)生活は終わりました。
帰国後
こうして帰国した是清ですが、実はこれといって何かをしたわけではありません。学問をしたり、ふらふらと遊びまわったり、腰の据わらない生活を送ったといいます。まだ少年といっていい年齢でしたから、無理もないことかもしれません。ちなみにこの頃の是清、英語教師の職なども経験しています。奴隷同然のアメリカ生活だったとはいえ、決して無駄な日々ではなかったということでしょう。
明治6(1873)年、知り合いの森有礼のすすめで、是清は新政府の文部省に出仕します。その後、新設された特許局の局長などをつとめ、やがて日本銀行へ入行しました。これが財政家としての高橋是清のキャリアの始まりと言ってよいでしょう。
余談になりますが、この時期、是清はいくつかのビジネスに手を出しています。ペルーでの銀山経営などがその一例。しかし、これは無残に失敗しています。人のすすめによってこのビジネスに手を出したようなのですが、挑戦心と人のよさが同居したような、独特な是清の性格がうかがえます。なお、是清が日銀に入行したのは、この失敗の直後のことです。
大蔵大臣を幾度もつとめる
日銀に入行後の是清は順調に出世し、1904年の日露戦争勃発時には副総裁の地位にありました。この戦争が日本にとって大変困難だったことは知られていますが、その理由の一つが戦費の不足でした。日本政府はこれを外債発行によって補おうとします。しかし、当時の日本はアジアの片隅の小国であり、信用もなく、外債による戦費調達などは大変難しいことでした。これをうまく調整して解決したのが、ほかならぬ高橋是清だったのです。この大きな実績によって是清はのちに日銀総裁にまで上り詰めることとなります。
1913年、是清は第一次山本権兵衛内閣において大蔵大臣のポストに就きます。これが大蔵大臣の初就任で、その後、是清は幾度も幾度も大蔵大臣に就任することとなります。例えばあの「平民宰相」原敬の内閣でも大蔵大臣をつとめており、原が暗殺された後は内閣を引き継いで総理大臣兼大蔵大臣となっています。年を経て政界を引退しても、請われて大蔵大臣に再登板するなどもしました。
なぜ是清がここまで幾度も幾度も大蔵大臣に就任したかというと、経済的な危機への対応にとても長けていたからということのようです。と、いうのも、戦前の日本経済の構造というのは非常に脆弱で、調子を上げては急失速(恐慌)するといったことの繰り返しでした。ここに適切な対策を当ててどうにか再浮上させることに手腕を発揮したのが高橋是清だったのです。数々の危機に直面した大蔵大臣ということで、経済的にさまざまな問題が発生している現代においても、是清の名が顧みられることが多いわけです。
最期まで
高橋是清は、暗殺によって生涯を終えています。ご存知の方も多いでしょうが、あの二・二六事件によって。
その日、1936年2月26日、赤坂の自宅にいた是清を、陸軍の青年将校が襲撃しました。是清は当時も岡田啓介内閣の大蔵大臣。大臣として軍事費削減を進めようとしていたためにターゲットとなったのです。襲撃は成功してしまい、是清は射殺されました。このとき81歳。その最期まで大蔵大臣であったということになります。
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