江戸時代というのは出版統制がなかなか厳しかった時代で、作家や版元のほか、絵師でも処罰された者がありました。その中でも最も有名と言ってもいい人物が喜多川歌麿です。今月は、この喜多川歌麿にちなみ、さまざまな浮世絵師をご紹介いたしましょう。
岩佐又兵衛(天正6(1578)年〜慶安3(1650))
一般にはそれほど有名ではないかもしれません。しかし、日本絵画史の中ではかなりの重要人物です。江戸時代初期の絵師で、例えば俵屋宗達や長谷川等伯といった絵師らと近い時代に活躍しました。まだ浮世絵というものが全く確立していなかったころですが、又兵衛は当時の風俗をたいへん個性的な視点・タッチで活写した作品を残しました。これが浮世絵の大きなルーツになったと考える人もおり、ある意味「浮世絵の始祖」とも言える人物なのです。
ちなみに、又兵衛はその出自も変わっています。父(祖父とも)は荒木村重という戦国武将。織田信長に仕えていた村重はあるとき突然信長を裏切り、敗北。その際に一族の多くが殺されたものの、又兵衛は救われ、やがて絵師になったという経歴です。絵師としては非常に順調で、徳川家の婚礼品の制作を依頼されたほどです。
鈴木春信(享保10(1725)年〜明和7(1770)年)
鈴木春信は浮世絵を一つ完成させた絵師と言えるかも知れません。というのは、春信は「錦絵」と呼ばれる浮世絵の手法を完成させたからです。錦絵というのは、木版多色摺を駆使した浮世絵のこと。のちに浮世絵の標準ともいえるまでに広まるこの手法を、はじめに活用した絵師が春信でした。春信の活躍により、錦絵の手法は急速に発展、以後の浮世絵の標準的な技術となりました。
むろん、手法だけではなく、春信はその作品も素晴らしいものです。特に、ほっそりとした可憐なタッチの女性たちはまさに春信一流のもので、独特な魅力に溢れています。
東洲斎写楽(?〜?)
誰もが知る浮世絵師の一人でしょう。寛政6〜7(1794〜95)年ころに活躍しました。役者の似顔絵がその本領で、顔の特徴を捉え、大胆に誇張したその作品群は、まさに浮世絵を象徴するものとして世界的に知られています。
それほどの絵師でありながら、活動期間は1年にも満たず、正体も謎。ミステリアスなところが人々を惹きつけるのか、たびたび「写楽ブーム」のようなものが起こってきました。その正体についてはさまざまな人物が唱えられてきました。近年の研究では、当時の文献にも残されている徳島藩の能役者「斉藤十郎兵衛」ではないかともされますが、いまだ確実とも言い切れないようです。
喜多川歌麿(宝暦3(1753)年〜文化3(1806)年)
本稿のタイトルにもなっている喜多川歌麿。言わずと知れた大浮世絵師で、あの葛飾北斎と双璧ともいえる存在でしょうか。そんな歌麿の代名詞といえばやはり美人画。基本的には役者の絵にしか用いられなかった「大首絵」(上半身アップの構図)を美人画にも取り入れて人気を獲得しました。その女性の内面まで浮かび上がらせるようなタッチも当時大変な評判を呼びました。
しかし文化元(1804)年、豊臣秀吉が開催した「醍醐の花見」に材をとった絵がもとで、手鎖50日という罰を受け、そのわずか2年後この世を去りました。処罰の心労からとも、処罰後、さらに人気が高まったための過労からとも言われます。
ここで蛇足を一つ。歌麿の師匠は「妖怪画」で近年ひじょうによく知られるようになった絵師・鳥山石燕です。ご存知だったでしょうか。
さて、これまで、このコーナーで触れていなかった浮世絵師について、簡単にご紹介いたしました。彼らの絵は昔のものではありますが、その手法や思想は後世に確実に受け継がれ、現在の日本の絵画の世界にも確実に影響を与えています。そういった視点で浮世絵や浮世絵師を見つめてみるのも、また面白いかもしれません。
それでは、今月はここまでです。浮世絵師というのは数多く、有名な人物だけでもまだまだご紹介し足りないほどですが、それはまた稿を改めることにいたします。
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